雪と澱

行き場の無い言葉たちに。

生きたということ

唐突だが、一つ俳句鑑賞をしたい

 

ある女性の作者が、高校3年生のときに洗濯洗剤から香る鈴蘭の香りを嗅いで詠んだ句だ。

 

 

 

鈴蘭やいつか私も母になる

 

 

 

鈴蘭は初夏の季語である。初夏らしいさわやかな空気とともに、自分の未来が、覚悟というよりは柔らかな喜び(家庭をもつ喜び)のような実感とともに祝福され、ストンと胸に落ちる句だ。

 

私がTwitterで初めてこの句だけを読んだとき、作者が誰なのか知らなかった。そこで、気になったのでこの作者がのちに誰と結婚してどんな家庭を持ったのか調べてみることにした。

 

 

この作者の名前は、加賀谷理沙という。

 

 

 

 

 

 

 

2018年3月7日 産経新聞のネット記事より(一部省略)

「東京都中野区のマンションで平成27年8月、劇団員の加賀谷理沙さん=当時(25)=を殺害したとして、殺人や強制わいせつ致死などの罪に問われた被告の裁判員裁判の判決公判が7日、東京地裁で開かれた。任介辰哉裁判長は「激しい苦痛を与える残酷な犯行」として、求刑通り無期懲役を言い渡した。任介裁判長は「通りかかっただけの被害者に目をつけた通り魔的犯行」と指摘。「被害者は役者になる夢や希望を理不尽な形で絶たれ、無念は察するに余りある」と述べた。」

 

 

 

言葉が出なかった。

25歳で通り魔に殺されたという事実。彼女は出産どころか結婚すらできず死んでいった。彼女の未来を祝福するような初夏鈴蘭の香りは、沼の底へ沈んでいった。

 

 

 

言葉というものがもつ力は如何許りだろう。私はこの俳句を契機に、被害者の女性になみなみならず感情を揺れ動かされた。

 

もしこれが単なるニュースだったら?何も詩なんて生み出さない人が殺されていたら?私はここまで感情を揺れ動かされなかっただろう。恐ろしくも思うが、津々浦々どこかで人が死んでいく世の中で顔も知らないたった一人におちおち同情はできない。

 

だが、彼女は別だった。彼女が痕跡として残した句は、私の心を深く捉えた。言葉というものがもつ力は如何許りだろう

 

 

私が死んだときは、墓標は建てて欲しくない。できることなら死体も、焼いたら海に流してほしい。

ただ、象徴としての私は残らないだろうけど、もし貴方を捉えた言葉があったら、それを縁にたまに私を思い出してほしい。そう思った。

 

生きたということ。