雪と澱

行き場の無い言葉たちに。

短歌・4月

また一ヶ月経ってますよメールが来た

 

今回も連作を投げてみよう。

 

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憧憬と情景

 

スーパーのチラシの裏のבראשית黙って祈ってろ人類

 

✳︎ בראשית ベレシート

 

雨の日のペルシャ料理とガラス灯ここでするべき短歌の話

 

磨崖碑のまるくてざらざらした感じ。「が」の鼻濁音きれいなきみの

 

メロディは涸れてベースはそのままで地下用水路はقناةと呼ぶ

 

✳︎ قناة カナート

 

20歳迎えた途端にわたされる広告チラシ『アデン・アラビア』

 

Coca Cola売上2兆!アラビアの料理にも合うアメリカ資本

 

風化する煉瓦造りのダマスクスそこを左に曲がれば思考

 

 

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連作って難しいよね

 

短歌・3月

気が向いたので投稿する。

 

連作にチャレンジだ。

 

どうでもいいけど最近イマジナリー・ガールフレンドが心にでしゃばってきた

 

 

 

 

ぼくらのところ

 

肩寄せる間を駆けた春の風「愛って淡い緑色なの?」

 

「君」以外の二人称がほしい。そしたら君を君と呼びたい

 

ぼくたちは妙に静かで……「天久保公園」音になってく

 

ぼくらもう二年生なのか君の髪つくばの水の匂いがした

 

朝が来て暖色灯を消したからよりよるのいろぼくらのところ

 

それぞれの孤独たゆたうぼくたちの静かの海に水はないらしい

 

君がいた暗がりの部屋の真ん中のすっぱいビール。すごく悲しい。

 

この空をきみに教えるなら一語「ゆううつ」以外に何もいらない

 

雨の日の君のほおほどの柔らかさ。ケーキをつくった。一人で食べた。

 

「あの頃は幸せな日々を信じてた」「そうだね、ぼくら、」月の裏にて

短歌・2月

前回の投稿から1ヶ月経ってますよ!とメールが来た。ぜんぜんブログ更新してなくてごめんヨ。

今回は今月作った短歌(俳句は作らなかった…)のまとめ。これからも毎月まとめていこうと思う。

少ないけれど、許してください。

 

 

短歌

大脳がヒトより大きい原人はみな自殺して絶滅しました

 


しんしんと透る湖に持ち歩く氷の一つエリック・サティ

 


ねえ雪のような言葉が降ってきて、私一人じゃ澱になっちゃう

 


昨晩に君の愛液絡まった右手の小指で弾くラ♯

 


ぼくたちを笑って見てた流れ星窓の隙間にこびりついてた

 


月は人知れず沈んで感傷の終りのように生活は来る

 


雨水をロゴスで濾過して雪にして沈湎せよ我ら死ぬばかり

 


吐きかけた言葉は足を灼く熱砂或いは摂氏50度の雨(下の句は時雨薫さん)

 


君の目が知らない色に染まるまで疲れた笑みでぼくを騙して

 

 

 

以下三作はつくば現代短歌会に投句したもの。

 


北国へ私の胸も乗せてって。きっと熱くて溶けちゃうよバス

 


ため息は幾粒の泡。ぶくぶくぶく。「息をしたい!」ともがいて祈る。

 


凍りついたガラスのような息をして透き通る死を忘れずにいる。

生きたということ

唐突だが、一つ俳句鑑賞をしたい

 

ある女性の作者が、高校3年生のときに洗濯洗剤から香る鈴蘭の香りを嗅いで詠んだ句だ。

 

 

 

鈴蘭やいつか私も母になる

 

 

 

鈴蘭は初夏の季語である。初夏らしいさわやかな空気とともに、自分の未来が、覚悟というよりは柔らかな喜び(家庭をもつ喜び)のような実感とともに祝福され、ストンと胸に落ちる句だ。

 

私がTwitterで初めてこの句だけを読んだとき、作者が誰なのか知らなかった。そこで、気になったのでこの作者がのちに誰と結婚してどんな家庭を持ったのか調べてみることにした。

 

 

この作者の名前は、加賀谷理沙という。

 

 

 

 

 

 

 

2018年3月7日 産経新聞のネット記事より(一部省略)

「東京都中野区のマンションで平成27年8月、劇団員の加賀谷理沙さん=当時(25)=を殺害したとして、殺人や強制わいせつ致死などの罪に問われた被告の裁判員裁判の判決公判が7日、東京地裁で開かれた。任介辰哉裁判長は「激しい苦痛を与える残酷な犯行」として、求刑通り無期懲役を言い渡した。任介裁判長は「通りかかっただけの被害者に目をつけた通り魔的犯行」と指摘。「被害者は役者になる夢や希望を理不尽な形で絶たれ、無念は察するに余りある」と述べた。」

 

 

 

言葉が出なかった。

25歳で通り魔に殺されたという事実。彼女は出産どころか結婚すらできず死んでいった。彼女の未来を祝福するような初夏鈴蘭の香りは、沼の底へ沈んでいった。

 

 

 

言葉というものがもつ力は如何許りだろう。私はこの俳句を契機に、被害者の女性になみなみならず感情を揺れ動かされた。

 

もしこれが単なるニュースだったら?何も詩なんて生み出さない人が殺されていたら?私はここまで感情を揺れ動かされなかっただろう。恐ろしくも思うが、津々浦々どこかで人が死んでいく世の中で顔も知らないたった一人におちおち同情はできない。

 

だが、彼女は別だった。彼女が痕跡として残した句は、私の心を深く捉えた。言葉というものがもつ力は如何許りだろう

 

 

私が死んだときは、墓標は建てて欲しくない。できることなら死体も、焼いたら海に流してほしい。

ただ、象徴としての私は残らないだろうけど、もし貴方を捉えた言葉があったら、それを縁にたまに私を思い出してほしい。そう思った。

 

生きたということ。

過去作・俳句及び短歌

またブログをたまに更新していこうと思う。

今回は、過去作の俳句と短歌をまとめてみた。

拙いものばかりですが、見てくださると嬉しい。

こう見るとかなり少ないですね、自分が把握してないものも含めるともう少しありそう。

 

俳句

 


夏めいた古典古代の警句かな

五月雨やオランジュリーを逆しまに

噴水や只今傲岸不遜中

夏の日の陰の紙上のデカダンス

この肉を芝に圧しこむ星々よ

妬ましき若葉をちぎり噛みて吐く

そこの死を掬いし若葉、熾烈たれ

酷暑など我関せずと古書、無言

何も知れず死に往く人ら蝉時雨

溽暑、我まで生きた風に名を

肌になれし甚平を撫で、ゆたり朝

月わらいけり手や壁はあをじろく

冬の夜を死んだ人々へ捧ぐ詩

柴犬の息行き渡り冬の霧

急く人の御髪の根まで冬の霧

精霊の揺らいで冬の霧の街

 

 

 

短歌

「どんな色が好き?」と歌う子の未来

くすんだ色のボクはいらない

 


鏡像のオセアニア何を見ながら人の話を聞いてんだオレ

 


蚤の市で孤独を切り売りしてる人、北極海を沈み行く人

 


パーカーのポッケに両手突っ込んで

寂しく微笑え

秋の囚人

 


今日星が降り注ぐのは君の笑みを夜の灯りで見ていたいから

 


死ぬまでの流星群は燦々と。

雪は結晶そのままだった。

残る

中学生の多感な時期に、村上春樹ノルウェイの森』を読んだ。

今ではその内容をほとんど忘れてしまったが、ひどく感動したことだけは覚えている。(読書というのは、内容よりもそのときの自分の環境、感情の方を鮮烈に覚えているものだ。)

 

だけれど、その当時から今に至るまでずっと覚えている言葉がある。今手元にノルウェイの森が無いので、他サイトからその引用を引っ張ってきた。以下。

 

 

永沢という男はくわしく知るようになればなるほど奇妙な男だった。僕は人生の過程で数多くの奇妙な人間と出会い、知り合い、すれちがってきたが、彼くらい奇妙な人間にはまだお目にかかったことはない。彼は僕なんかはるかに及ばないくらいの読書家だったが、死後三十年を経ていない作家の本は原則として手に取ろうとしなかった。そういう本しか俺は信用しない、と彼は言った。
現代文学を信用しないというわけじゃない。ただ俺は時の洗礼を受けていないものを読んで貴重な時間を無駄にしたくないんだ。人生は短い」
「永沢さんはどんな作家が好きなんですか?」と僕は訊ねてみた。
バルザック、ダンテ、ジョセフ・コンラッド、ディッケンズ」と彼は即座に答えた。
「あまり今日性のある作家とはいえないですね」
「だから読むのさ。他人と同じものを読んでいれば他人と同じ考え方しかできなくなる。そんなものは田舎者、俗物の世界だ。まともな人間はそんな恥ずかしいことはしない。(・・・)」

 

 

 

この永沢という男の発言のせいで、僕はなかなか現代の作家の小説に手が伸びにくくなってしまったのだが、それはさておき、彼のセリフの中に、“時の洗礼”という言葉が出てくる。

 

時の洗礼。

 

名文とは、残る文である。数多く筆写されて修道院に千年以上も保管されるものであったり、それを読んだ誰かの頭に(さながら砂場に落とした鉄球のように)如何ともし難く跡を残すものだ。

 

そして、人間の為せる本物の文とはそれである。言ってしまえば、残らない文には即応性以外に何の価値もない。

 

近くを省みれば、最近は大学で文系縮小の向きがある。しかし、それを主導する彼らは“本物”を知らないのである。ボクにとって、人文学とは本物を残し、伝える学問である。本物を失った皮相上っ面の世界で、人間はどのように立ち振る舞えばいいのだろうか。

 

時の洗礼に耐える“本物”を作り出すことは、未来の世代に対して我々が担う責任である。

 

 

体感

今、この記事を読んでいるあなたには何が聞こえているだろうか。好きな歌手が歌う甘いバラードか。遠くの草の間に鳴る虫の音か。鼓膜の近くを流れる血液の音か。

 

今、あなたは耳の感覚を研ぎ澄まして様々な音を拾ってくれたと思う。

 

そしてみなさんに問いたい。そんな体の感覚は心に作用するだろうか?

 

我々はこれぞ人間の特権だといわんばかりに頭を使ってよく考える。そしてそのあまり論理的に正しいことしか認めてはいけない風潮さえある。本当にそうだろうか。

 

ではあなたはなぜ生きるのか。ぜひ論理的に説明してほしい。あなたはなぜ死を選択しようと思わないのか。

 

こんな場末のブログを読みに来る人々は多かれ少なかれ上記のような疑問にぶつかったことがあると思う。しかしそのときに明確な答えを弾き出せた人はそういまい。

 

ではなぜ考える我々は生きることの理由を見いだせないまま生きられるのか?私はそこに「体感」があるように思う。

 

たとえばあなたが小説を読んでいるときに、理由もなくただ体がある一節を受け入れ、それが心の底にストンと落ちることはないだろうか。

 

たとえばあなたが山を登ったとき、山頂で果てしなく広がる世界を鳥瞰して深呼吸し、体が生まれ変わるような感覚を受けたことはないだろうか。

 

たとえばあなたが水泳をしているとき、長く泳いだあと、軽い全身の痺れと疲れとともに、心地よい爽快感を味わったことはないか。

 

私はそんな体感が心に訴える、些細なものから大きなものまで一つひとつの実感が、私たちを生きることとむすびつけるのではないかと思う。

 

風の色を、太陽の匂いを、音楽の味を、美食の歌を、光の触り心地を感じよう。

 

 

あの『人間失格』の主人公でさえ、青葉の滝を見に行きたいと言ったのだ。

 

 

死にたがりの現代人こそ、スマホを見てばかりいてはいけない。